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底辺大学生のブログ

底辺大学生が学生生活や学歴、社会問題、時には趣味の事について日々思ったことをつらつらと書き連ねるブログです。

日記的装置としてのSNS、承認欲求充足装置としてのSNS。

例の一件であのフォロワー数の多いツイッターアカウントを停止し、ツイートを止め、タイムラインを見ることも控えてみて一ヶ月以上経つが、そこで思ったことをつらつらと書いていこうと思う。

ツイッターにどっぷり浸かっていた頃の自分は明らかに、いや潜在的には今もそうなのではあるが、ツイッターを中心に世界が回っていた。常人の感覚であればツイッターSNSは日々の出来事を電子的に記録し、それを仲間内で見せ合う装置、言わば「公開型電子版交換日記」のようなものであろう。それに対し、ツイッタラーと呼ばれるフォロワー数が2000人を超えかつその半数以上がリアルの知人ではないようなツイッター依存症の人達にとってはSNS「自己承認欲求充足・拡大装置」である。とにかく、ファボ・RTを稼ぐために気を惹くようなツイートをし続ける。最初は10ファボもつけば満足だったものが、満足できなくなり、更に刺激的なものをもとめ、倍以上のファボを獲得する。しかし、それでも満足できなくなり・・・と、負の連鎖が続くのである。行く所まで言ってしまうと、「リアルの世界あってのSNSでは無く、あくまでSNSが絶対的世界であって、現実世界はSNS世界での承認欲求を満たす為のツールが置いてあるだけにすぎない言わば物置場」のような感覚陥る。これは誇張でもなんでもない。今日サークルの友人と飲み会をした、この楽しそうな様子をツイートすればファボが稼げるな、明日は恋人とデート、このリア充な様子をFacebookにあげればいいねがもらえるな、とリアルのイベントそのものをどう進行していくかということよりも、まず最初にSNSにどうあげるか、どういう反応を得られるか、ということにまず考えが行ってしまう。リアルの出来事をSNSでいいねを稼ぐ為のツールとしてしか見られない。これはもう病である。このことは「公開型電子版交換日記」的な使い方をしている人にも少なからずあてはまる部分もあるのではないだろうか?学園祭での楽しかった様子をツイッターにあげ大量のファボをもらったり、Facebookに近況報告をしいいねを大量にされれば、SNS依存でなくとも、いい気持ちをするものであろう。彼らも一歩間違えればSNSを「自己承認欲求充足・拡大装置」として使い始める危険性は常に孕んでいるのだ。しかし、そのように至らないには、彼らは僕らと違って、リアルの生活に絶対的な自信・確固たる軸があるからなのだと思う。一見、同じように楽しそうな学生生活を送ってる二者がいるとしても、これだけは譲れないといった生きていく上での価値観・取り組むことがある人間はSNS依存には陥らない。否、陥る必要がない。なぜならSNSで満たされる承認欲求以上のものがそこにはあるからなのだろう。これは僕の勝手な推測・妄想でしかない。なぜなら、それを知っているのならば、僕はSNS依存になんてなってないんだからね。